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ひろゆき氏
ひろゆきはなぜ広い支持を集め続けているのか。成蹊大学文学部現代社会学科の伊藤昌亮教授は「ひろゆきは、既存のリベラリズムが想定していた従来の“弱者像”からこぼれ落ちた集団に対して希望を与え、支持を集めている」のだという――。
若者に支持される“生き方”のライフハック
プログラミング思考に基づいて生き方や考え方を改善しようとするひろゆきの発想は、「ライフハック」と呼ばれる手法に特有のものでもある。ITを使いこなすためのちょっとしたコツやテクニックを日常生活に応用し、仕事や日々の暮らしを効率よく営もうとする考え方で、2000年代半ば以降、業界を中心に広まってきたものだ。そこではアプリケーションやデジタル機器の活用術の応用として、さまざまな「仕事術」や「生活術」が考案されるが、そのためのコツやテクニックは「裏ワザ」「ショートカット」などと呼ばれることが多い。
彼はその提言の中で、「ずるい」「抜け道」「ラクしてうまくいく」などという言い方をしばしば用いる。そうした言い方は、その不真面目な印象ゆえに物議をかもすことも多いが、しかしこの点もやはり単なる「逆張り」ではなく、ましてや彼の倫理観の欠如を示すものでもなく、むしろ「裏ワザ」「ショートカット」などの言い方に通じるものであり、ライフハックの流儀に沿ったものだと見ることができるだろう。
ただし彼のライフハックは、一般のそれとはずいぶん異なるものだ。一般のそれが日常生活の細々とした営みを改良しようとするものであるのに対して、彼のそれは、生き方や考え方の根幹を改造しようとするものであり、さらに社会全体の成り立ちを批判しようとするものでもある。つまり自己改造と社会批判という2つのラディカルな論点を、ライフハックという軽妙な手法で同時に扱おうとするものだ。
これら二つの論点をうまく噛み合わせることで、彼のライフハックはその支持者に独特の効果をもたらすことになる。
まず自己改造という点では、あたかもアプリケーションを効率化するかのごとく、ちょっとしたコツやテクニックで生き方や考え方を改善することが可能だという印象、いわば人生のショートカットキーがどこかに存在するという錯覚が与えられる。
一方で社会批判という点では、高度にデジタル化された業界から捉えられた社会像が、いつまでもアナログ体質なままの日本社会の現実と対比されるため、その古さや非効率性が強調され、いわば日本は「オワコン」(終わったコンテンツ)だという断定が与えられる。
その結果、「(日本の将来は暗いけど)あなたの未来は明るい」という診断がもたらされることになる。それを受けて彼の支持者は、「日本はいつまでも変われないが、自分はいつでも変われる」という思い込みを抱くようになるのだろう。
そうした思い込みは、もろもろの不満や不安を抱える者にとってはどこか心地よいものだろう。一方では「オワコン」の日本を「ディスる」ことで、社会への憤懣を安直に晴らすことができ、他方では自己改造の可能性を信じることで、自己への承認を安直に満たすことができるからだ。
つまり自分がこれまでうまくいかなかったのは、このどうしようもない社会のせいだが、しかし便利なショートカットキーが見つかったので、これからはうまくいくだろうというわけだ。
こうした安直な思い込みが広く受け入れられてしまうのは、「いつまでも変われない日本」への苛立ちと諦めが、とくに若い世代の間に広がっているからだろう。「自分だけはいつでも変われる」と思い込むことの中にしか希望を見出せないほど、彼らの展望は閉ざされているのではないだろうか。
ここであらためて考えてみよう。「日本の将来は暗い」にもかかわらずなぜひろゆきは、「あなたの未来は明るい」と言えるのだろうか。通常の考え方では日本の未来が暗ければ、そこに住む人々の未来も暗くなるはずだ。しかし彼はそう考えない。
彼によればこれまでの日本は、工場のラインに見られるような「横並び」の体制のもとで、「みんなでトクせざるをえない」という構造を大事にしてきた。
しかし昨今ではとくに産業に見られるように、「ひとりで稼ぎ」「ひとりで利益を受け取る」というビジネスモデルが増えているため、「ほかの人にも分配する必要がなく」なった。その結果、「みんなのことを気にせず、自分だけがトクする」ことが可能になったという。
だからこそ「日本社会が「オワコン化」しても大丈夫」だと彼は断じる。「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」なのだから。
「ダメな人」に向けられるひろゆきの目線
ここに見られるのは、いわゆるネオリベラリズム(新自由主義)、もしくはリバタリアニズム(自由至上主義)に特有の考え方だと言えるだろう。公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場だ。
そもそも彼は成功した起業家であり、さらにマスクやベゾスなど、桁外れの大富豪の名をしばしば挙げていることからも窺われるように、彼自身がネオリベラルな考え方の持ち主だとしても、それはとくに不思議なことではない。
イーロン・マスク氏イーロン・マスク氏(写真=JD Lasica from Pleasanton, CA, US/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)
では彼は典型的なネオリベラルなのだろうか。実はそうではないだろう。その議論には、むしろそこからはみ出るようなところが多く見られるからだ。
一般にネオリベラリズムとは「弱肉強食の論理」だとされる。とりわけ業界ではいわゆるネットワーク経済の法則により、“winner-take-all”すなわち「勝者総取り」の原理が働き、強者はどこまでも強くなっていく。
そうした世界でネオリベラルな論者であろうとすれば、その視線は強者に向けられるのが普通だろう。しかし彼の議論はむしろ弱者、それも彼なりの見方に基づく弱者としての、いわば「ダメな人」に向けられることが多い。
たとえば「コミュ障」「ひきこもり」「なまけもの」などがその代表格だが、さらに彼が生まれ育った東京・赤羽の団地には、「社会の底辺と呼ばれる人たち」がたくさんいたという。「生活保護の大人」「子ども部屋おじさん」(実家の子ども部屋に暮らす独身中年男性)「ニート」「うつ病の人」などだ。
昨今の若者は「いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前」だという「成功パターン」から外れると、「もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない」などと思い込みがちだが、しかしこうした「ダメな人」は「太古からずっといた」のだから、気に病む必要などない。むしろ「ダメをダメとして直視した」うえで、「チャンスを掴む人」になるべきだと彼は言う。
というのもこれまでの日本では、「ダメな人」は「横並び」の体制についていくことができなかったが、しかし昨今では「会社で働けないタイプの人」でも「ひとりで稼ぎ」「ひとりで利益を受け取る」ことが可能になったため、プログラマーやクリエイターとして成功することができる。実際に彼自身も「コミュ障」だったが、「プログラミングという武器がある」ことでうまくいったという。
ラップトップでコードを書くアジアのプログラマー写真=iStock.com/mapo
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時代をとらえた「弱者の生存方法」
だからこそ彼はそうした人たちに、プログラミング思考によるライフハックを勧めるのだろう。マスクやベゾスの名を挙げてはいるものの、彼にとってのその本質は、むしろ「自分の人生は自分で守る時代」の「弱者の生存方法」なのではないだろうか。
こうした見方からすると、デジタル化によって強力に駆動される今日のネオリベラリズムは、決して過酷なだけのものではなく、とくに「ダメな人」にとってはむしろ優しいもの、その「生きづらさ」を減じてくれるものということになる。
たとえ「子ども部屋おじさん」だろうと「ニート」だろうと、ちょっとした副業のノウハウさえつかめばそれなりに稼ぐことができ、社会参加が可能になるからだ。
たとえばさまざまなクラウドソーシング業務のほか、アフィリエイトビジネスから株式投資に至るまで、やり方はいくらでもある。うまくいけばそこから起業したり、デイトレーダーとして一攫千金を狙ったりすることも可能だろう。
そうした可能性に目を向けることで「チャンスを掴む人」になるよう勧めることが、ある種の逆転の発想として、彼の提言のいわば目玉となっているのではないだろうか。
こうした彼の見方は、今日のネオリベラリズムを捉え直し、「ダメな人」のために再定義しようとするものだと見ることもできるだろう。それは「弱肉強食の論理」を推し進めるものでありながら、一方で「弱者の論理」を活かすものでもあるという見方だ。
今日、ネオリベラリズムの強力な論理の中に否応なく巻き込まれ、それに適応せざるをえずに汲々としている人々は、それを「強者の論理」から「弱者の論理」へとこうして優しく転倒してくれる彼の議論、いわば「優しいネオリベ」という考え方に、慰めや励ましを感じ取っているのではないだろうか。
ではそれは、なぜ「ダメな人のためのネオリベラリズム」であり、「リベラリズム」ではないのだろうか。本来はむしろリベラリズムこそが「弱者の論理」となるべきものなのではないか。それなのにひろゆきは、そしてその支持者はリベラル派を嫌い、さまざまな局面でその立場に反対している。それはなぜなのだろうか。
その背景にあるのは、とくに「弱者観」の違いという問題だろう。弱者とは誰なのか、そしてどうあるべきかという見方に関わる問題だ。それぞれについて考えてみよう。
円陣を組んで手を積み重ねる人々写真=iStock.com/AnVr
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リベラル派と異なるひろゆきの“弱者観”
まず弱者とは誰なのかという点では、一般にリベラル派は、とくに2つの立場に沿った見方をしてきたと考えられる。
その1つは従来の福祉国家論の立場であり、そこでは社会保障や公的扶助の主たる対象として、高齢者、障がい者、失業者などが弱者だと考えられている。もう1つは近年のアイデンティティ・ポリティクスの立場であり、そこではとりわけジェンダーとエスニシティに関わるマイノリティとして、女性、LGBTQ、在日外国人などが弱者だと考えられている。
加えてとくに日本の場合には、戦後民主主義の立場から、さまざまなかたちの戦争被害者がそこに含められることになった。
これらの存在、すなわち高齢者、障がい者、失業者、女性、LGBTQ、在日外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の「弱者リスト」の構成員となっていると言えるだろうが、一方で彼が問題にしているような「ダメな人」は、そこにはほとんど含まれていない。「コミュ障」「ひきこもり」「うつ病の人」などだ。
そうした人たちは、リベラル派のプログラムでは救済されることがない。そのためリベラル派の言うことを聞いても意味はないと思われているのだろう。
次に弱者とはどうあるべきかという点では、一般にリベラル派は、とくにマルクス主義の伝統に親和的な見方をしてきたように思われる。弱者とは搾取されるばかりの存在であり、したがって連帯し、運動し、集団として権利を主張しなければならないとする見方だ。
こうした見方は、しかし「ダメな人」を力づけるものではない。そこではまず弱者が、もっぱら搾り取られる側の存在としてのみ規定されているからだ。また、そもそも「横並び」が苦手な「ダメな人」たちに連帯するよう説いても、あまり現実的ではないだろう。
一方で彼の議論では、逆に各自が稼ぎ取る側の存在になるよう勧めてくれ、そのためのいろいろなやり方を教えてくれる。だとすれば、集団としての権利などよりも個人としての利益のために立ち上がるほうが、はるかにやる気も出るし、現実的だということになる。
こうしたことから「ダメな人」は、そしてそのオピニオンリーダーとしての彼は、リベラル派の見方を拒否することになる。その「弱者観」は彼らを救済するものではなく、力づけるものでもないからだ。
ホームレスの男性に小銭を渡す手写真=iStock.com/Liudmila Chernetska
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リベラル派の弱者=「偽の弱者」?
しかしリベラル派は自らの見方にこだわり、その「弱者リスト」の構成員にばかり福祉を分配しようとする。一方で「ダメな人」は分配の対象にされないばかりか、その原資を拠出するための徴収の対象にされてしまう。彼らの目にはそう映っているのではないだろうか。
そのため彼らは、そうした分配の仕方に異議を申し立てるとともに、その根底にある分配の原理、つまり福祉国家というシステムそのものに疑義を呈する。その結果、「大きな政府」を否定し、「小さな政府」を望む立場、すなわちネオリベラリズムを支持することになる。こうした考え方が、「ダメな人のためのネオリベラリズム」を支える思想の一部となっているのだろう。
そこではリベラリズムが、彼らにとっての「弱者の論理」としてほとんど機能していないことがわかるだろう。それどころかそれは、特定の「弱者の論理」を押し付けてくるという意味でむしろ「強者の論理」なのではないかと、彼らの目には映っているのではないだろうか。
しかもそこで考えられている弱者、つまりリベラル派の「弱者リスト」の構成員は、そうした「強者の論理」に守られている以上、もはや「真の弱者」ではなく「偽の弱者」なのではないかと、やはり彼らの目には映じるのだろう。というのも彼ら自身が「真の弱者」なのだから。
こうした見立てに基づいて彼らは、「強者」としてのリベラル派と、「偽の弱者」としてのマイノリティに強く反発することになる。そうすることが「真の弱者」としての彼らの階級闘争となるからだ。
たとえば辺野古をめぐる騒動のきっかけとなったのは、米軍基地建設反対運動の現場で、「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」とひろゆきがツイートしたことだった。彼がそうした行動に出たのは、リベラル派の「弱者リスト」に含まれる戦争被害者としての沖縄の人々が、運動するポーズを振りかざしているだけの「偽の弱者」にすぎないという見解を示したかったからだろう。
基地運動が行われている沖縄・辺野古基地運動が行われている沖縄・辺野古(写真=Si-take./CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
その後、リベラル派との間で論戦が繰り広げられ、さまざまな事実を突き付けられたにもかかわらず、彼は断固として態度を変えようとしなかった。彼がそうした行動を取ったのは、特定の「弱者の論理」を押し通そうとするリベラル派の「強者の論理」に、あくまでも対抗するという姿勢を示したかったからだろう。
それらの行動はいずれも、彼に「いいね」を贈った28万人もの「真の弱者」の階級闘争が、その背後に存在することを意識してのものだったのではないだろうか。
ひろゆきのこうした振る舞い方は、弱者の味方をして権威に反発することで喝采を得ようとするという点で、多分にポピュリズム的な性格を持つものだ。しかもリベラル派のマスメディアや知識人など、とりわけ知的権威と見なされている立場に強く反発するという点で、ポピュリズムに特有の、反知性主義的な傾向を持つものでもあると言えるだろう。
権威を「情弱」とみなす独特の優越感
実際、彼のライフハックはその自己改造論にしても社会批判論にしても、自己や社会の複雑さに十分に目を向けることのない、安直で大雑把おおざっぱなものであり、知的な丁寧さからはかけ離れたものだ。
伊藤昌亮『曖昧な弱者の時代』(岩波新書)伊藤昌亮『曖昧な弱者の時代』(岩波新書)
しかしその支持者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか。というのも彼の反知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ。
そこではとりわけ歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、手っ取り早い情報知がぶつけられる。ネットでの手軽なコミュニケーションを介した情報収集能力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長たけた者であることが強調される。
そうして彼は自らを、いわば「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱」であるかのように位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特の優越感に満ちた態度が示され、それが彼の支持者をさらに熱狂させることになる。
このように彼のポピュリズムは、「情報強者」という立場を織り込むことで従来のヒエラルヒーを転倒させ、支持者の喝采を調達することに成功していると言えるだろう。しかしそうしたやり方は、その支持者を増長させ、ともすればポピュリズムの危険性を増幅させかねないものなのではないだろうか。
あとは失敗した奴とかの立場が弱いやつで失敗を認めないみたいな奴をテレビに呼んできて揚げ足取りでボコボコにする
そういうことやってれば愚民からはすごい論客だと誤認してくれるんだよ
というか若いヤツからしたらこのおじさん一体何?ってくらいのもんだろ
ペテン師の妄言で草
こうやって取り上げる方、相手する方もする方だよ
叩いていい対象を屁理屈で”論破”してネット上で遊べるネタにしてくれることかな
こんな奴希有でひたすら積み重ねないと上がってけねーだろ
ひろゆきに「深い理由」なんてねーよw
川の流れに合わせてフラフラしてるだけだろw
深い理由なんかないぞ。
煽ってるだけだからな




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